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人間が人間らしく生きていくために 社保平和学校「ハンセン病と人権」の学習会

2019/03/20 東京ほくと

 長い間、ハンセン病患者さんは偏見と差別に苦しんできました。1996年に「らい予防法」が廃止されるまで隔離政策は継続されました。その歴史とたたかいを学ぶことを通じて、私たちの「人権」について改めて考える機会とするために、くらしの活動委員会主催・第3回社保平和学校として、学習会を企画、55人が参加しました。

ハンセン病とは何か
 はじめに、国立ハンセン病資料館参与の儀同政一(ぎどうまさいち)さんから、お話しいただきました。ハンセン病は普通の感染症であり、治療中も治療後も普通に生活がおくれる病気であること、免疫が完全ではない乳幼児期に、未治療の患者から放出された「らい菌」を繰り返し吸い込むことで感染しますが、必ずしも発症するわけではなく、万が一感染しても発症はまれで、発症しなければ病気ではありません。
発症には個人の免疫力以外に衛生・栄養状態の悪化が大きく影響するため、戦前戦後の劣悪な環境が原因となり発症に至りました。現在の日本のように環境が整った社会では発症することはほとんどなく、多剤併用療法で確実に治癒する病気です。

偏見や差別の歴史
 ハンセン病は数千年前から存在し、有効な治療薬のなかった時代、症状が進むと神経痛や発汗障害と併せて手足や顔の変形・障害などを起こし、外見に後遺症が残ることがあったため、偏見・差別・迫害の対象となりました。
日本では、国辱とされ、1907年の「癩(らい)予防に関する件」公布以降、人権を無視した強制隔離収容が進められました。全ての県内から患者を無くすことを競わせた「無癩県運動」、感染への恐怖心を煽って密告を奨励する「癩予防デー」など、国策として患者さんを療養所に収容するだけでなく、重症患者の看護介護をはじめ土工・木工など強制労働に従事させられ、職員に従わないと処罰され、断種手術や中絶手術まで受けされられました。治療薬が開発された後も国の隔離政策は続きました。
患者自らが、デモや座り込み、ハンガーストライキなどを手段として、らい予防法の廃止を求めて行った「らい予防法闘争」が1996年に実を結び、法律が廃止された以降も偏見は根強く残り、いまなおハンセン病回復者の皆さんを苦しめています。

過酷な闘病生活
 ハンセン病回復者の山内きみ江さん(85歳)に幼少時代からの過酷な闘病生活について話していただきました。幼い頃から両手が食事をするにも不自由なほどで、画鋲や釘が足に刺さっていても気づかないほど足の感覚がなく、神経痛の痛みに悩まされる中、ご家族の厳しくも大きな愛情に助けられながら懸命に生きて来られた人生そのものです。

私たちが担う役割
 学習会に参加された方々からは、「ハンセン病に関する歴史を経年的に追って理解することが出来た」「国の責任はもちろんだが、私たちの無知、無関心が差別による人権侵害を引き起こしたのではないか」「山内さんの差別は許さないという信念、生き方に感銘を受けた」といった感想が寄せられました。
儀同さんが最後におっしゃっていた「無知・無関心は差別の温床。同じ過ちが繰り返されないようにする役割を私たちが担っている」という言葉を忘れず、これからの活動に活かしていきます。

(組織部・山崎 建)