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組合員が語りつぐ戦争体験

2022/08/10 東京ほくと

組合員が語りつぐ戦争体験

町屋支部 新井勝子

新井さん

 「戦時中のことは、ほとんど覚えていない」と言いながらも、町屋支部の新井勝子さんが戦争体験を語りました。
 1934年生まれで7人家族、5人兄弟の真ん中でした。戦時中は北区上十条2丁目1-2のあたりに住んでいました。
 1945年3月10日の東京大空襲のときは11歳。体が弱いので自宅にいたそうで、その光景を思い返しました。「家の防空壕から出て『見て、きれい』なんて。そう思っちゃいけないんでしょうけれど、夜空は真っ赤だし、パラパラパラパラ何か落ちてくるしね。そういうのは覚えていますね」

東京都北区戦災焼失区地図

戦争がひどくなる前、1942年頃に赤羽線沿いにあった家は強制的に壊されました。新井さんの家は線路から丸見えで、ギリギリのところで残りました。
 どこへ逃げたかはわからないけれど、空襲警報が鳴ると、線路伝いに歩いたのは記憶にあるそうです。「赤羽方面しか逃げるところがなかったのでしょうね。毎日どこを歩いたかが全然覚えてなくて、帰ってくると家があり『ああよかったね。家があって・・・』と。第1陸軍造兵廠と第2陸軍造兵廠の近くだったので、もう家はないと思っていましたから」

女性団体

 家族の中では、中学生だった兄が学徒動員で川越の農家へ行きました。たまにサツマイモをお土産持ち帰ってくれました。
 東京生まれで田舎がないので、小学5年生の1945年8月に、伊香保温泉へ集団疎開に行きました。そこで体調を崩し、翌年の1月に東京へ戻り、6月末までいました。戦時中は、子どもが家にいてはいけないので、快復したらまた行ってと言われ、同じ群馬の藤岡の寺に集団疎開に行きました。

そこへ行って1か月半で終戦に。8月15日の玉音放送を寺で聞き、何を言っているのか全然わからないまま、先生に「東京行きの切符を買ってきて」と言われました。「そのときなぜか先生が泣いているような気がしましたね。駅へ行くと、農家のおじさんたちが『日本は負けたんだよ』『でも東京へ帰るとおっかないよ』と言いました」
みんなは10月か11月に東京へ戻りましたが、新井さんは9月半ばにまた体調を崩し、一足早く帰ってきました。子どもの頃は体が弱かった(中耳炎で熱が出た)新井さん、現在90歳で町屋支部で大活躍されていました。これからもお元気で長生きしてください。

1トン爆弾

聞き手/編集委員・川井久子

《写真と地図は「戦後60年写真で語り継ぐ平和の願い」(北区行政資料センター所蔵)より》

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